【河内キリシタン人物伝】 2.三箇城主、三箇頼照サンチョ

当ブログは、地域の発展を心から願っておられた故神田宏大先生より掲載のための許可をいただいたものです。

2 三箇城主、三箇頼照サンチョ

三箇頼照サンチョ

『河内キリシタン物語』を書き始めると、人の名前だけでも筆が進まなくなってしまいます。韓国のインターネットTV局のディレクターから、「ロレンソの日本名は何と言いますか」と質問されましたが、すぐには答えられませんでした。

日本の文献で「りやう西」とあるのが最も古く、「了西」とも書かれているのもあります。しかし、ある学説では、「これらの名はロレンソを日本語の当て字にしたものである」と言い、他の学説では、「了西をロレンソと読んだだけだ」と言っています。「ロレンソ・了西」、「ロレンソがクリスチャンネームで、了西が彼の日本名だ」と言っている人もいます(『京畿切支丹史話』海老沢有道著)。

ロレンソの名前だけでも筆が進みませんが、河内キリシタンで最も代表的なキリシタン大名「三箇頼照サンチョ」も、「白井備後守」、「シカイ殿」、「大木殿」、「サンパコ」と不思議な名前もあり、一五八八年にイエズス会総長に宛てた書簡には「サンチョ・三ヶ」と自筆のサインをしています。彼の名前だけでも、どれを採用するかが問題になってきます。

松田毅一氏が「三箇家系図」を世に発表して、三箇頼照サンチョは三箇家十三代頼照である事を結論付けました(『河内キリシタンの研究』参照)。

家系図によると、「頼照は織田信長公の下知によって、河内高屋城攻撃でまっ先に城中に攻め入って敵の大将首を捕った功によって将軍義昭公より宇多郡を賜う。泉州久米田合戦に於いて敵陣を打ち取った山を三箇山と称するようになった」と彼の武功を称えています。

三箇頼照の信仰の歩み

三箇頼照は飯盛城でロレンソの説教を聞いて洗礼を受けた三好長慶幕下の七十三名の最も代表的な人物として、飯盛城眼下にあった深野大池、その中の島にあった三箇城主として君臨していた人物でした。

一五六三年に飯盛城で洗礼を受けた彼は、すぐに妻子をキリストに導き、自分が建てた異教の小祠をキリシタンの聖堂に変えて礼拝を守るようになりました。

彼の家臣三千名が次々に信仰を持ち始め、先の聖堂が手狭になったので、そこに新しい教会堂を建て直し、宣教師のための宣教師館も新しく建てられました。宣教師の報告によると、「大きな湖にある島の教会」と三箇教会を説明しています。

一五六五年、将軍義輝が松永久秀、三好義継に殺され、宣教師ビレラは、河内三箇の教会に難を逃れて来ました。さらに『宣教師追放の女房奉書』が出されて、京都から宣教師が追放され、フロイスたちも堺に逃れる途中に三箇に立ち寄りました。

ちょうどその少し前、四条畷岡山城主、結城左衛門尉が毒殺されて近畿の教会は混乱状態に落ち入りそうになりました。それ以来、三箇城横に頼照によって新しく建てられた三箇教会が近畿地方のキリシタン信仰の中心拠点として活躍するようになったのです。

三箇頼照のことを宣教師アルメイダは、「私が日本に於いて見た最も信仰厚きキリシタンに属す」と報告しています。またフロイスは一五六七年の書簡に於いて、「他のキリシタン一同の頭で、その徳の高い事の模範を人々に示しているので大いに敬愛されて、各々の君主、また、お父さんのように尊ばれている人で、その名をサンチョと言い、年齢は五十歳で、その家族及び家臣たちは、彼の示した素晴らしい模範と不断の奨励によって神の愛の中に留まろうと極力努めました。……彼は日本の宗旨、習慣に精通しています」と、頼照の信仰について語っています。

三箇教会のイースター(復活祭)・パレード

三箇頼照はクリスマスとイースター(復活祭)の時は格別壮大に祝典を行いました。

一五七二年の三箇教会のクリスマスにはオルガンチノ宣教師、ロレンソ、さらにマテウス修道士らも加わって壮大なクリスマス会が行われました。彼らはしばらく三箇教会の宣教師館に留まり、オルガンチノ宣教師は毎日二時間、日本語で子供たちにキリスト教の教義を教えていました。綜欄の聖日(復活祭の一週間前の日曜日)にはロレンソが説教し、イースターにはマテウス修道士が胡弓を弾き、宣教師たちが賛美を歌い、感動的な壮大な復活の祝いがなされたそうです(「河内キリシタンの研究」参照)。

三箇頼照はイースターに各地から集まった二百名のキリシタンたちをもてなし、聖劇が演じられ、六十隻の飾り立てられた舟で復活祭のイースター・パレードが深野池でなされ、二百隻の漁師の舟が三千名の見物人を乗せてイースターを共に祝っています。このイースター・パレードが十五年間、毎年、飯盛山の麓にあった深野大池で行われるようになりました。この深野池での湖上のイースター・パレードは河内の風物詩として人々の心に感動を与えた事でしょう。

私は「野崎まいりは屋形舟でまいろう」と東海林太郎の野崎小唄に歌われている、屋形舟で詣る野崎観音(慈眼寺)に隠れキリシタンの信仰を垣間見て「河内キリシタン」研究をするようになりました。五月一日から十日までの「野崎まいり」は旧暦では四月の初めのイースター頃になり、「野崎まいり」が八幡山で処刑された無縁仏の供養のためのお参りである事を知った時、八幡山で殺されたキリシタンの殉教者を偲び、復活祭のパレードが行われた良き河内キリシタンの時代を懐かしんでなされた行事ではないかと思うようになりました。

※この事に付いては、『河内キリシタン人物伝』の続編、『野崎観音の謎』で詳しく、野崎観音が隠れキリシタンの寺であった事を論証します。

三箇キリシタンの盛衰

歴史は「河内キリシタン」の時代から、高山右近の「摂津高槻キリシタン」の時代へと移行しますが、やがて「近畿キリシタン」として共に成長するようになります。織田信長のキリシタンに対する理解により、近畿においてキリシタンは爆発的な広がりを見せていきます。

京都においてザビエルの時代から夢であった都の教会、『南蛮寺』が一五七七年に建てられました。同じ頃、三箇の教会も成長して手狭になり、三箇頼照は三箇の大聖堂を現在の大東市に建てました。大東市にある「住道」は昔、「角堂」と書いていました。『大東市史』には、「角堂」の名前の由来は、三箇キリシタンが隆盛を極めたころ、ここに第三の教会が建てられたのでこの名前が付いたとするのが有力のようである」と記されています。「角の堂」というのは、教会堂がゴシックの三角屋根か三角の塔があったのでこのように呼ばれるようになったと思われています。

この大聖堂が建てられた次の年、近畿のキリシタンは危機に直面しました。その一つは、高槻城の高山右近の直属の殿様であった荒木村重の謀反によって、信長と村重の板挟みで右近親予は苦悩に立たされてしまいました。織田信長は右近に、「信長に味方しなければ宣教師全員を高槻城の門前で礫にする」との最後通告がなされます。高山右近は剃髪し、開城して信長に城を明け渡し、高槻の領民と宣教師たちの命を救い出しました。

もう「つの問題は、キリシタンの池田丹後守と共に、八尾城、若江城の城主であった多羅尾右近が、三箇頼照サンチョと息子の頼連マンショが山口の毛利氏と組んで信長に謀反を企んでいると讒言をした事です。

多羅尾右近はキリシタンに対して反感を持っていたので、河内キリシタンのリーダーであった三箇頼照サンチョ親子をことさら陥れようと、有りもしない事を捏造したのです。フロイスの『日本史』によると、「この事が信長の耳に達するやいなや、彼は人並みはずれて短気であったので、ただちに三箇親子を斬り、寸断するように命じ、彼の軍勢の主将であり政権を担当する佐久間信盛に書状を書き送った」とあります。

佐久間信盛は三箇親子の人格的な素晴らしさを良く知っていたので多羅尾右近が、一五七七年十二月に河内の三箇領民全員がキリシタンになった事を妬んで行った、根も葉もない讒言である事を、信長に彼の怒りが過ぎ去った後で伝え、牢屋に入れられていた三箇マンショの命を救いました。

三箇頼照サンチョは佐久間信盛の領内である近江永原城に難を避けていましたが、そこでも彼は使徒的布教活動をして約五十名が洗礼を受け、教会を建ててキリシタンの群れを形成しました。

「本能寺の変」における三箇殿

一五八二年(大正十)、明智光秀は謀反を起こし、京都の本能寺にいた織田信長を滅ぼし

ました。無防備であったために簡単に反乱は成功しましたが、岡山の高松城を水攻めにしていた秀吉はこの情報を得て、「中国大返し」と世に呼ばれる、六日目には高槻に引き返し、七日目には山崎の合戦で明智光秀軍を撃ち破る快挙を成し遂げました。

この合戦により、織田信長の時代から豊臣秀吉の時代に移りますが、三箇頼照サンチョと息子の頼連マンショ父子がこの合戦で明智光秀側に味方をしました。

フロイスの『日本史』によれば、「三箇(頼連マンショ)殿だけは、明智が彼に河内国の半領と、兵士達に分配する黄金を積んだ馬一頭を約束していたので、彼の側に味方した」と記録しています。

また、「明智に加担した者は一人残さず生命を奪われた。諸説が…致しているところでは、かのわずかの日々に、すでに一万人以上の者が殺されたらしい。……三箇殿の最大の敵であった者は、サンチョとマンショ父子の首級を持参した者に対して多大の報賞をとらせると約束した」事も述べられています。

このような結果、三箇の城も、京都の「南蛮寺」を他にすれば近畿で最も壮麗な三箇教会もすべてが放火によって焼かれ灰塵に帰してしまいました。

「三箇キリシタン」は最大の危機に直面しましたが、幸いにもキリシタン大名の四条畷岡山城主、結城ジョアンが三箇領も与えられる事になったので、彼が二年後に小牧の戦いで戦死するまで三箇のキリシタンたちは辛うじて守られました。

三箇親子のその後

私は三箇親子が明智光秀に味方したために、てっきり秀吉側によって殺されたと思っていました。

まして「サンチョとマンショ父子の首級を持参した者には、多大の報賞をとらせる」と、報奨金のかかった首であったので、生きられるはずがないと思っていたのです。

しかし、息子の三箇マンショは大和の筒井順慶の息子、定次の領内にかくまわれ、定次から四百俵の収入を与えられていました。

さらに定次は三箇マンショの導きとキリシタンとしての人格にひかれて、彼自身、バリニヤーノ巡察師から洗礼を受けるようにまでなりました。キリシタンの輝きは、たとえ身分も財産も失い浪々の身となっても、人々に良き感化を及ぼし、キリストへ導く「世の光」となることができるのです。

三箇頼照はこの後、岡山の砂教会を大坂城に移築した大坂城教会で、修道士のような「使徒的信仰生活」を送る日々であったようです。

さらに彼は、佐久間信盛の領内であった近江永原で導いたキリシタン集団とその教会を励まし、彼らを慰め、霊的な書物を共に読んだりして信仰を深めた事が記録されています。

秀吉の迫害下での三箇頼照の活躍

大坂城教会は、一五八七年(天正一五)に豊臣秀吉の「伴天連追放令」によって、京都の南蛮寺と共に破壊されてしまいました。

その時、高槻から明石船上城城主として六万石を与えられていた高山右近は、秀吉から、「キリシタンの信仰を取るか、明石六万石の大名の座を取るか」と、決断を迫られた時にキリシタンの信仰を選び一介の浪人の道を歩みました。

河内と摂津のキリシタンたちの群れも、宣教師たちも、突然の「伴天連追放令」のために「キリシタンの大旦那」と言われた高山右近の保護を失い、堺の商人から秀吉の海軍を動かす大名にまでなった小西行長が支配する播州の室津に、近畿の名だたるキリシタンの指導者、宣教師たちが善後策を相談し、一時、宣教師たちをかくまってもらうために集まって来ました。

秀吉の「伴天連追放令」が出ていたために、秀吉の海軍奉行であった小西行長と親族は秀吉の逆鱗に触れる事を恐れて、屋敷の中に彼らを一歩も入れようとはしませんでした。その時、四条畷岡山出身の結城弥平次の説得で小西行長は熱心な信仰に目覚め、近畿における有力なキリシタン大名として、彼らの保護につとめるようになりました。宣教師たちを追っ手から、さらに安全であった小西行長の領地である対岸の小豆島に渡すため、老齢になった三箇頼照は、宣教師のマントを身に着け、自らが囮になって別の船で追いかけて来た追つ手をだまし、命がけで宣教師たちを守るために働きました。


神田宏大

1945年(昭和20年)7月3日、兵庫県西宮市に生まれる。単立・野崎キリスト教会牧師。関西聖書学院講師。テーマは「伝道実践・キリシタン史」。神学博士。関西500教会のネットワーク「近畿福音放送伝道協力会」副実行委員長として、毎月、朝日放送ラジオを通して日本のキリスト教会史のエピソードを語っている。「ニューライフ2000日本」全国実行委員長として韓国CCCの学生1万6000名の短期宣教師を受け入れ、沖縄から北海道まで10年間、日本の各地で宣教運動を展開した。

■著書 『河内キリシタン人物伝』 『野崎観音の謎』

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